_eyeronyだけが愛だった_

笑えない過去と、それからの事

浮世

一ヶ月、浮世離れした暮らしをすることになった。その先はどうなるのか分からないけど思い描くようにいけば良いなと漠然と考えるばかりでそれよりも今は落ちる事がなかった体重が短期間で一気に減少した事やそれに伴う不調、これ以上悪くしてはいけない焦りでいっぱいいっぱいなところがある。でも一ヶ月という時間を体のために使って良くなった事でほんの少し気が楽になった。同時に申し訳なさでどうしようもない気持ちにも。そんな不安を、そんな気持ちを本当は外に排出したかった。でも安心して排出できるところなど無いんだな、という事に気付いた時孤独も感じたしでもこの孤独こそが本来の状態なのだと思った。いい加減嫌気がさしてさしてたまらないなと思った決定打。言葉で何か言われるならまだ良かった。でも記号1つで人の不調ばかりにいいね、と送ってくる人間がもう虫唾が走る、気持ち悪い、完全に拒絶した気持ちになってしまった。普段から何に対しても記号を送る人にはそんな事はあまり思わない、けど、普段は少しも何の反応も無い人間がそういう負の感情ばかりを収集するように、いいね、としてくるその所作が私にはもう理解出来ない、理解したくもない。言葉の意味を分かっているのか分かっていないのか。正直そんな事も分からない人間と関わりなんて少しも持ちたくない。そこまで思ってしまった。だからもう私は良かったことも悪かったこともそういう人間のいる場所には少しも共有しないと決めた。良かったことも悪かったこともそんな風に扱われるなんてごめんなんだよ。本当の幸せも楽しさも苦しさも辛さも、玩具にされるくらいなら全部しまっておくか、本当に話そうと思えた人にだけ直接話した方がいいんだなって。そう思った。

音楽を聴けない

かれこれもう2週間くらい聴けない。

辛い時には人間じゃなくて音楽があった。

今が辛いかどうかと言えば特別辛いわけではないんだけど、日々の変化についていけない心身に少しのため息をつきながら過ごしている。テレビ、音楽、ネット。自ら進んで遠ざけている。そこから受ける自分への影響が怖い。というのも一理ありで。好きなものは好きなまま変わる事は無いけれどただ浸透させる余裕がない。そして下手に浸透させてアレルギーを起こしたら?というところまで考えて、テレビも音楽もネットも極力無くしている。それでも案外生きていける。ただ大好きな人の楽しみにしていたアルバムすら聴けていない、というのはちょっとかなしい。買ったまま開封されていないアルバム。ツレが、良かったよと言ってくる事にムカついてしまった。私は聴けるコンディションではないのに報告なんてしないでほしい聴けないの聴けてないのわかってんじゃん。とへそを曲げてしまったのだ。

 

唯一ちゃんと音楽を聴いた、と思えたのは、先月末のこと。新宿の地下二階で、目の前で奏でられた夏果て。その夏果てさえ私にとって久しぶりに聴く音楽だった。ただぼんやりと眺める事しか出来ず、夏の終わりを目の前で告げられ、見下ろした先に私がいて、目があって少し柔らかに笑ってくれる。音だけでなくそれにまつわる全てを集めて音楽という空間で、そこはとても心地が良かった。最前列。障害物はなく、目の前に純度100%の大好きな人しかいない。左右など無いようなもの。一対一。そんな気分で味わう時間はとても贅沢で素晴らしかった。誰ともその良さを分かる分かる、なんて共有してやりたくないほどの格別な。

 

その素晴らしかった時間を延々リピートして、以降また音楽を聴けず、ツレは音楽を聴きながらお風呂に入る習慣があるので流れている事はわかるけど。でもそれを取り込む事なく私は過ごす。

 

何かの拍子で何もなかったように聴き始めるのかもしれない。けど、焦らない。大切を大切にしていくためならなんでもする。

 

毎日二日酔いしているような体を引きずる事に精一杯だ。終わりがあるよと言われたって、今日という日は今日しかないから。終わりがあるとかあまり関係なくってさ。戻れないじゃん。戻んなくてもいいけど。進むけど。傷の舐め合いくだらない。日々増える非表示に連動して世界が少し綺麗になる。月、綺麗だったな。

毎日ちがう

嫌いなにおいがもっと嫌いになった。万年鼻炎で嗅覚はわりと鈍いというのに冴え渡る嗅覚に嫌気がさす。変化は嫌いじゃないしむしろ変化は楽しいと思う方、だと思う。モノによるけど基本的には好き。でも自分でコントロールするのが難しい変化は完全に置いてけぼりをくらうのでまいってしまう部分もある。ヘアコロンにまざるタバコの匂いが死ぬほど嫌い。それがもっと無理になって憂鬱な帰り道。くさいものをいい香りを被せて誤魔化そうなんて無理なんだよ。誤魔化しなんて利かないのが何事についても、なのかもしれない。

 

日々日替わり定食のように訪れる変化についていけない事に罪悪感と情けなさを覚える。私が情けないから劣っているから消化出来ないのだと。旦那にそう言うと君は自己評価がとても低いから、あまりそんな風には考えない方が良いよ。と諭される。自己評価、低いのかな。わかんない。でも絶対的に情けなくない劣ってない確証が無いんだもん、あーめんどくせえな。

 

諸々を話した。

でも現実はきっと厳しいのだろうな。

テレビや雑誌やネットで話されることなど本当にきっと一部の場所でだけ適応されている半ば特例で、スタンダードには程遠い。そうは言っても本当は特例ようになってしまう事が間違いでなければいけないと思うんだけど。一生懸命選びながらコマを進めてきた。一筋縄にはいかない。全部をちゃんとしたいのに。

 

どんどん抽象的にしか書けなくなるのは酒の肴になりたくないからで、一度でもそういう経験があるともう誰の肴にもなりたくなくなる。タダで食ってんじゃねえよ。

 

毎日ちがう波に半ば強制的に乗っかる形であがったりさがったり溺れたり沈んだりする。それもいっときのコトだと言う人もいれば、今に始まった事じゃないと思っている自分もいる。

 

今夜のごはんを考えるつもりが、貴重な10分の乗車時間を散文する事に使ってしまった。今夜は何を作ろう。

 

 

いきしに

について、考えなければいけない事が多過ぎてこれまで粗末にしてきた事についてもその割にいきなり可愛がりたくなっちゃったりと、自己中なもんだったなと漠然と。

粗末に扱ってきたわりには身体は健康で、不良品のような即バキバキに折れるココロとは大違いに見た目も体質も図太く丈夫。ココロさえ強ければ怖いものなかったんじゃないか?と思うけど、そんな屈強でもな。死に損なったと思った事も、生きたくて仕方がなかった事も、なんとなく生きてる事も、本当自己中に決めてきた。

これからも自己中に決めていくのだろうけど、そうもいかなくなる時がくるんだろうね。そんな風に生きる事死ぬ事を交互に考える。

病気とは一切無縁だった父が病に倒れたのは2年前のことで、体も心も屈強、楽観的、ブレなすぎて時々ウザい、お調子者。そんな父で。病に倒れたと言う言葉すら不似合いだった闘病当初の姿。それでもその時点で気付かなければひと月足らずで死んでいたという話を今日聞いた。それから今日までは一進一退を続け、それでも目に見えた衰弱は無く病人っぽさもなく過ごしていた、けどそんな姿の父は、入籍をする少し前にした両家の顔合わせの時が私のみるそんな父の最後の姿になってしまったのかもしれない。と思うほどその二ヶ月後である今はなんだか病人らしくなってしまった。そしてそれは、もうなんとなく色々な事を覚悟しないといけないようなそんな予感を憶えるような。出来ることはあまりありません、でも緩和したり、ケアをする事はできます、とは医師の言葉で、そうなんだよ。出来る事はあまりないんだ。その言葉に少し救われた。理想論で語る出来る事なんて山ほどあるんだろうけど、人が人に出来る事は限られてる。出来ない事を出来るように謳われるよりもずっと良かった。そう伝えることが、お仕事なのだとしても。生き死にについて考えた時、できることって一体何なんだ。あんま無いんだ。多分。生きるか死ぬかしか。生き延ばしてくれる、産まれてくる手伝いをしてくれるのが医療なんだなあ、とかぼんやり考えながら大雨降りしきる駅までの道を歩いて「俺はそんなショックうけてないよわかってたし」とさらりと言い切る隣を歩く弟が、思ってたよりずっとシッカリしていてなんだか大きくみえた。けどお姉ちゃん心配だよ。なるようにしかならんけどさ。

最近数日ではあるけど、Twitterをやめていた。流れてくる気まぐれな死にたいが心底無理だと思った事や色々あるけど、不純物としか思えなくって遠ざけた。死にたいを死なないでと言うことで愛情を確認しているのか、踏み絵なのかそんな風になっている、その時の反応で選別されるような様がダメだった。そんなに嫌ならじゃあ辞めたら良いのにダラダラ居てしまうのは結局そういう繋がりに慣れてしまったから失くす事に抵抗があるだけでそれもとても嫌だし今は何よりストレス感じたくない。から一方通行を意識したような事しか話せず、こうやって壁打ちでなんか書いてる方がずっと良い。人と繋がりたいのにヤケドしない繋がり方を選びたがるとはまた随分自己中お疲れ様なアレで。

壁打ちで書いているとどうしてもぶっきらぼうで、憂鬱な人の様にみえるような気がするんだけど。でも全然私は元気だ。身も心も。ただ日に日に体が痛い。変化がある。でもそれは粗末にしてきた割に健康だから感じる痛みで別にそれはそんな悩みでもない。外の雨が酷いので、スターバックスで雨宿りをしながらこの文章を書いている。リラックス効果のあるやつで、ハーブ系で、ミルクの、美味しい紅茶のやつ…なんだっけ。注文をする段階でどれかおもいだせず、抽象的な伝え方をして店員さんを困惑させるも一緒に考えてくれた店員さんがめちゃくちゃ可愛かった。導き出した答えは、ティーラテのアールグレイ。バニラシロップの風味と香りの良いアールグレイ、少し肌寒い今日のような日にはピッタリだった。身辺の変化に疲れ気味のところに優しく溶け込んできて本当に美味しい。飲み終わる頃には雨も多少弱まれば良いのだけど。生きるか死ぬかの話からティーラテの話にまで話が脱線したところで、おしまい。死にたがりは嫌いだよ。

 

やめどき

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『丁度いいところでやめられる人が

   ハッピーエンドよ』

大森靖子「ノスタルジックJ-pop」MusicClip - YouTube

 

ホッとした気持ちと、悲しい気持ち。

そんな日だった。

 

本来、アーティストとファンの距離はステージと客席よりも遠いものだと私は思っていて。

 

それが良くも悪くもとても近い、近くなる事も遠くなる事も選べるのが今の時代で、それはSNSの復旧が大きいよね。あとは何かと便利になった。アナログからデジタルになった。なんでも。色々が復旧する前は、自分の大好きな歌手が今日のお昼、何食べたかなんて知る手段はまずなかった。それが今はリアルタイムで垂れ流される。それは最早普通。別に珍しくない。

 

雑誌を買わなくちゃ、テレビをみなくちゃ情報を得れない、大好きな人の話を気持ちを聞けない。年に数回のファンクラブの会報。普段の雑誌やテレビじゃ知ることが出来ない特別なもの。何度も読み返して、ファンクラブ会員である誇らしさ、ファンクラブ会員だから知る事が出来たという嬉しさに何度だって浸った。

ラジオをきかなくちゃ。いや、ラジオをききたいのにこれは地方局だ。うちじゃきけない。だから地方に住む友達に録音してもらったカセットテープを送ってもらわないと。そうしないと話を聞けない。今ように全国のラジオ局にどこにいようと繋がれる、なんて夢みたいだね。

感想を伝えたい、いいこと、わるいこと、楽しかったこと、感謝のきもち、ガチ恋みたいなラブレター。便箋に書いてファンクラブ宛に送らないと届かなかったこと。それだって、本当に渡せてもらえていたのかはわからないし読んでくれたのかもわからない。でもそれが当たり前だった。けど今じゃDMを解放?思った気持ちを直ぐに本人に直送出来る。信じられない事だよ。しかも返事がくる。夢?

 

一生懸命に情報を手探りでかき集めて宝物のように集まった気持ちを便箋にしたためる。下手くそな文字。かえってこない手紙。それでもライブに行けば会える、テレビをつけたらいる、雑誌の中ではめっちゃかっこいい。ラジオから流れる歌、声、全部が最高。

 

これくらいの距離感が本来の距離で

あまりに近かった距離感については、

嬉しいことも沢山あったけど、疑問もあった。

好きだ。大好きだけど、そのやり方がダメとかではないけど、その近すぎて不安定なグラグラする距離感は言葉にするのが難しいけどなんだろうな。大丈夫なのかな。っていうのか。本当はそんな風に思う距離にいるのもなんか変なものでさ。

 

突然姿を消した事に一日中騒つくインターネット。私は、心配するより先に心から安堵してしまった。よかった、って。だって疲れるよ。あんな場所。疲れる。本当に。でもなかなか抜け出せない疲れるのにぬるま湯にだらしなく浸かるみたいに浸かってしまう場所。どういうつもりでそうしたのかは分からないけど、少なくとも心労になっていた部分はあったと思う。常に見られてる、監視される、一つの物言いで延々揚げ足取られる、死にたい死にたい言われる、おもちゃにされる、嫌だよ。立場があるからと、立場を全うしようと聡明に向き合い続けるところは本当に素敵で、好きだ。でも誰かの神様であっても、彼女がそうありたいと思っても、人間だから全部をそんな受け止めるなんて絶対無理だ。言わずもがな当然のこと。心無いものにボロボロになっていく、心があるのになんでも耐久出来る無敵の心なんだろうと言わんばかりの弾圧とか。ね。人だよ。神様みたいにみえたとしても、同じ人間なのにな。なんだかな。

 

だらだら書いちゃったな。

 

個人的には、やめてよかったんだよ。って思ってしまう。悲しむ人、アカウント復帰を願う人、待つ人、色々いる。いていいんだ。

戻ってきたらそれは嬉しい。でも戻る義務感なんか絶対感じないでほしいとも。こんな場所なんかに。こんな場所が好きならそれはそれで、こんな場所にもいいところだってあるから。楽しかったことだってあるから。

 

屈託のない笑顔で歌うのが好きだというその気持ちを曇らせる事が無いような暮らしを、生き方をしている姿をみていたい。それが彼女にとっての心地良さでも幸せでもないかもしれないけど歌うのが好きだと嬉しそうに話す彼女が今自分から背負おうとしたものにやられてしまいそうになっている事が、とても辛い。そんなもの背負わないで全部捨てて大好きな事だけを、大好きだけを集めてほしい。死にたいなんて集めないでいいよって。

 

距離感が絶対的に遠い事が当たり前であった時代なら、こんな事は起こらなかったのかなって。どうなんだろう。ずっと考えているよ。

 

 

 

昔『こんなやつらの音楽を聴いているからお前はおかしくなったんだ』とお小遣いやお年玉を工面して買ったCDを割られポスターをビリビリに破かれた。泣き叫ぶしか出来ずその後しばらく声が出なかった。

 

『宗教みたいで気持ち悪い』『それ誰の言葉借りてるの(借りてない)』そう言ってまた私の好きは嫌悪された。信仰というにはあまりに薄くただ好きで自分一人で考えても分からず行き止まりになってしまった時、その原因を壊すための力を貸してくれるような存在で好きなだけなのに歪ませられて捉えられた心外すぎる心外をなんとか論破するも、あの時と同じだと落胆した。