_eyeronyだけが愛だった_

笑えない過去と、それからの事

コピーキャットばかりで反吐が出る

敬意があれば良いとかそういうんじゃなくて。

 

退屈な日常の垂れ流しを指でスラスラと流す時たくさんのコピーキャットたちがそうして流れていってもうどうしてもそれが嫌で呼吸するように押すミュート。

 

その言葉は誰が発した言葉か、言葉なんて皆平等に操れるおもちゃなのだから、好きにして良いだろ。言葉狩りがしたいわけではない。でもどうしてもこれはダメだろう、と思うコピーキャットをみるともうこの先一切お前のことなど私はみたくないよ、という気持ちになる。

 

私だって誰かの言葉を、誰かの話し方を、知らず知らずに影響されてそれが体に浸透してさも自分の言葉のように話しているかもしれない、そう感じる人がいても否めないとおもう。きっとコピーキャットだと私がおもうその人らもきっと浸透した結果、なら良いなとおもう。

 

そうじゃなくて、そう話せばあなた方は私に好感を持つでしょうのような裏が見え隠れするような、そういう媚びのようなものを本能的に拾ってしまうともう無理で自分の世界からだけはそれを駆除したくなってしまうよ。

 

それを許せる気持ちが私にはない。

 

頑なな性格をしているから、いけないのもわかる。真っ向から真面目に特攻し過ぎてる事もわかってる。それが苦しい事も、首を締めている事も、生きづらくなることも、自分で自分に課している足枷なので仕方がない。

 

とにかくダメだ。

早く夏が終わって静かになって欲しい。

 

偽物なんかに興味ない。

 

偽物ばかり。反吐が出る。

それを大声で言ったって何にもならないけど

嘘はつきたくないのだもの。

 

変わらない

7月最後の日、入籍を済ませた。

 

子供の頃からもう20年以上大好きなGLAY、そんなGLAYが20万人ライブを99年の7/31に催した。未だに破られていない前代未聞の記録を更新したその日に私は人の妻となった。20万人ライブの時は小6で、中学受験、夏期講習、とあったが駄々をこねて連れていってもらった。あれから18年。GLAYのファンにとってこのGLAYの日は特別な思い入れがあったから、無事この日に入籍出来たことは本当に嬉しい。今年の0731、午前10時にお台場でのフリーライブが告知された。私は仕事で、午後はいざ区役所へいよいよ婚姻届を提出。という予定であったから参加は無理。もっと早く知ってたら全休取って行けたんだけどな。あろうことか、区役所に向かう途中最寄の駅に行く前にツレと些細な事で喧嘩をした。なんでかは忘れた。それくらいどうでも良い事だった。あまりにムカついて、顰め面で電車に乗り込んでフリーライブがライブ配信されていると聞きスマホGyaOを出す、もイヤホンを忘れた。画面の中ではかんかん照りの会場で歌い演奏するGLAYの姿。でもイヤホンがなくて音を流せない。

と、不貞腐れていたところでツレがイヤホンを差し出してくれた。本当なんでそんな直ぐカッとなって揉めたのか忘れたけど、GLAYがカスガイとなって事なきを得て、画面の中でTERUが歌う生きてく強さを聞きながら役所のある駅まで行った。全て済ました後に、出会った街、高円寺へ。

 

高円寺の古着屋で出会いました。

 

なんていうと洒落ているように思われたり、ドラマのようだねとか言われた事がある。でもそこは、本当に高円寺の中でも最もディープで、別にオシャレではない。なんだったらオシャレな人は立ち入らないんじゃないか。そんな佇まいの古着屋。古着の他にはよくわからない自主制作の本とかCDとか、ヤバイ感じのバンドのCDとか、あとは口枷とか。ここまで挙げても異端な店という事がわかると思う。そこの主は高円寺の母とか一部では言われてた。東京のアンダーグラウンドとかアンダーグラウンドは東京にしかないとかここがアンダーグラウンドだ!とかなんかアンダーグラウンドって言いたがるね?って思っちゃうんだけど、私の知ってるアンダーグラウンドはこの店だった。ありとあらゆるアングラがそこにはあったしそこに来る人も一癖じゃ済まない人しか来ない。残念ながら、店自体は建物の老朽化のため取り壊しが決まり、もうそこからはなくなってしまった。惜しまれながらなくなった店。でも店主の高円寺の母はといえば、やっと知らない人(客)に会わないでいいと思うとすごく気持ちが楽になった、ずっとアレが嫌だった、だから清々しているのよ。と言うから少し驚いたけど、この店での出会いから始まった私とツレの事はずっと程よい距離感で見守っていてくれた。思い出の店はなくなったけど、街はきっとなくならないから。いつまでも楽しい気持ちで高円寺に足を運べる2人で居れたらいいね。

 

結婚したら何か変わるのかと思ったけど、思っていた以上に何も変わらない。友達は、変わらない事はいい事だと言ってくれて嬉しかった。ああ別に変わんなくていいのかって。人の妻になったら何もかも変わってしまうかもしれないという漠然とした恐怖がなくなって、楽になったのが本当によかった。楽しくなった。

 

人の妻、変わらない自分で楽しめますように。

 

(下書き編集0807)

 

わたしが消滅する

苗字が変わる。

これまでの私の氏名は消滅する。

 

なんかそう考えると、これまで29年間共にした名前が紙切れ一枚でフッと、なくなってしまうのってちょっとだけ怖いなあと思う。

 

そんな時間を迎えるまであと数時間あまりで。

 

この名前でここまで生きてきていろんな事をしてきたけど、これからは違う苗字を与えられた新しい氏名でどんな事をしていくことになるのかと考えると感慨深いのと、出来るだけ楽しいことと良いことを重ねて生きたいと漠然と考えている。

 

物怖じする性格、予期不安でどうしようもなくなるところ、そういう気質はまああるんだけどそれでも名前が変わることでこれまでの業とか足枷みたいにつきまとうモノとか全部おろして良いんなら、いや、良いよってされたい。勝手にそれで良いことにしようか。

 

ただ、そんな業や鬱陶しいものにまで多少の馴染みとか、腐れ縁のような気持ちを持ってしまっているから結局のところつきまとうような、そんな気がする。

 

大好きな女の子が言っていたように、十代の時大人になればなくなると思ったドロドロした嫌なものはハタチになってもついてきたし、アラサーになっても、そしていまも、変わらず在るものとしてなくならないと。でもだからいけないのではなくて、それといかにして共存するかが重要で。なんとかなるよね。

 

こんなお堅い物言いで書いてはいるけど、

実際私の頭の中は今最高潮の気分になっていてだって子供の頃からの夢が叶うんだから。

 

大好きなGLAYの、GLAYの日に結婚したい。

 

それが叶う事だけでもう私おなかいっぱい。

 

子供の頃からずっとGLAYの音楽とともにここまで生きてきて、何があってもずっとGLAYがそこにはあって、裏切るものがたくさんあっても何があってもGLAYは裏切らなくて、ただ程よいところに寄り添ってくれる。それがGLAYで。

 

そんな素敵な日に人生賭けて、

気持ち新たに生きられたら。

 

 

ヒヤリとしたい。

ここのところ体調を崩し気味だった。

いや、今もかも。

本調子ではない。

 

まず月曜日、会社を休んだ。

熱が出て、気持ち悪い。ヘロヘロでもう無理と思って朝一に欠勤する旨を連絡してベッドに沈んだ。ツレが、猫たちのいるリビングにクーラーをつけるから寝室のクーラーは切ると言いリビングで休んだらどう?と提案してくれたけど徐々に暑くなる部屋で昼までダウン。暑くて起きて、やっとリビングへ行っても会社を休んだ罪悪感とか、この感覚知ってる、っていうフラッシュバックが起こりそうになる事を無視するために思いついたことは『ホラー映画を観ること』だった。

 

会社休んで涼みながらホラー映画だなんていいご身分だと思うけど、会社に行けるコンディションじゃなかったんだもん。もうしょうがない。アマゾンプライムをつけて、片っ端からホラー映画を漁る。

 

ホラー映画が昔からとにかく好きで、幼少期は親からそれをとても嫌がられた。どうしても観たいとねだって連れて行ってもらった『エクソシスト』。今でも覚えているけれど劇場には私と母を入れて客は5人しかいなかった。吹き替えが良かったけど字幕しかなく、あの有名なブリッジして階段を下るのとかひとしきり見て当時の私の感想は一言で言えば、微妙。後々思えばその時に観たかったのは悪魔祓いとかじゃなく典型的なお化けがみたかったんだ。母親はウンザリとしていた。それも思い返せば夏休みだったな。

 

そして今回観ることにしたのは『喰女』

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四谷怪談を題材にしたもので、序盤は正直言って退屈だった。ホラー映画だと思って観ると退屈と言った方が多分適切。

舞台の稽古をする広い倉庫の様な場所に立派な舞台セットが沢山あり、そこで稽古をしているシーンが話の七割を占めるのではないか。そこで淡々と稽古をする、それをパイプ椅子に座って見守る舞台監督たち。そんなシーンが暫く続く。

 

重ね重ねになるけど、私はお化けがみたい。悪魔祓いとか怪死を遂げるとかそういうのじゃなくって。ひやっと怖がりたい。お化けというのも結構分かりやすいのが好きで、呪怨とかなんてすごく良い。貞子より伽倻子、もしくはひき子さんもあり。なんでかって分かりやすく怖くて、聴覚視覚からドキッと恐怖を味わえるから好き。そういう感覚が欲しい。ジェットコースターで落っこちた時のフワッとした感じが好きとか、そういうのに多分似てる感覚。

 

『喰女』はというと、私が欲していたホラー映画ではなかった。主演の市川海老蔵がとんでもない遊び人の役者の役で、共演女優や現場の女に何かと唾をつけたがる。そんな彼にも彼女がいてその彼女が柴咲コウ演じる劇団の看板女優。2人は四谷怪談の劇中でお岩さん、伊右衛門の役を演じるのだけど、話が進むごとにお岩を演じる柴咲コウの愛憎が極まり半ば生き霊の様になったかと思えばお岩の怨念と合わさって?(なのかな…)いき、そんな気持ちも知らぬ海老蔵は浮気を続ける。最後は完全に生きた人間と死んだ人間の怨念に呑まれて現実と非現実の入り乱れた空間の中で稽古を続けいよいよわけがわからなくなり…、という、お化け的なホラーというよりも最後は人間が一番怖いですね系の映画でした。求めているものではなかったけど、これはこれで面白かった。

 

と、ここまで書いてみて思うのはやっぱり私はこういう感想とか書くのって凄く下手。書いていくうちにそれなりになっていくのかな。

 

そして体調は回復せぬままにその後ソファーでうたた寝をして、まだ昼間なのに家のドアが開く音がした。誰?怖い。まだ昼過ぎ。ツレは帰ってこない。くるはずがない。このマンションはオートロックなのに。誰?!!パニックを起こし動けなくなり、頭の方から足音が近づいてきたところで記憶が曖昧になった。生きた心地がしなかった。

 

夜帰宅したツレにその事を話すと

『玄関に下げているカランカランは鳴った?』と聞かれた。思い返せばカランカランは聞こえなかった。玄関のドアノブに猫の形のカランカランと鳴るベルを下げている我が家。

 

じゃあ夢じゃないか、

となりようやく安心した。

 ホラー映画よりも怖かったのは、現実との境目がとても曖昧な自分自身が見せた夢だったというのも皮肉なものだよね。それでも私は怖くて仕方ないホラー映画がやっぱりみたい。

 

教科書のように

生き方が下手でこれまで何度となく恥ずかしい思いをして本気で恥の多い人生を送ってきましたとか思いながら思春期、太宰治を読んでから10年以上は余裕で生きてきた。どこへ所属してもうまくできない、親は頭を抱えてそれでも諦めずに娘をなんとかしようとお金を払ってそれなのに私にできることは学校にはないと夢も何もかも全てを放棄しやっと呼吸出来る、自分を自分のまま生かせてもらえる場所だとバンドのスタッフしてみたこともあった。それすら途中で出来なくなってこの腐った体腐った精神、不健康だからもう何してやっても別にいいだろうと粗末にしてきた10代だった。

 

ハタチになってそういうの疲れる怠い何も良いことなかった疲れた、そう思っていた時出会った今のツレとはなんだかんだでもう10年になる。今のツレに出会わなければ、多分未だにヤバい感じだったかもわからんし、あまり想像したくはない。ツレは沢山私が厭世しないための生き方を、良い道しるべを教えてくれた。でも彼は異性だから、面倒くさい女のグチャグチャな気持ちは多分わからない。そんなグチャグチャな部分を彼女が埋めてくれたのかもなと思った。そんな記事だったと思う。

 

教科書を読むように読んだ。

 

大森靖子 生きること自体を肯定、それが大人の仕事 (日経DUAL) - Yahoo!ニュース

どれを誰に愛されても嬉しいけど、

そのどの私も私のものだから、

ひとつとして誰にも否定されたくない。

これはずっと思っていた気持ちそのもので、

私の要素のどれか1つでもdisるなら何1つ愛さないで良いからその代わり愛さないで欲しい。

こういう事言うから極端なんだけど、でも、それをマイルドに言えばこういう言葉になるのだろうか。そもそも、前提として愛される、という事がわりと最近まであまりしっくりこなかった。ずっと。

自己評価を低く見積もりがち、

即死したくなりがち。

記事の中で書かれている典型的な自己評価の低い人間であった為、認められるはずもなく(そうした経験も希薄)、愛されるなど夢、愛されるとは幻、好きでいるフリ、私を好きでなんの得がある?とか、そういう腐った精神が根を張り巡らせたような人間でまさに即死コース真っしぐら!そんな生き方はマジで苦しく生き地獄で、救いを求める気持ちは確かに存在していたけど助けてもらえる気なんかしなくて無理だった。

 

自分のことは自分でしか助けられない。

これは今でも思っていて、誰も救えないんだから自分が自分を救うことしか出来ないのだと。

ただ誤解されたくないのは、そう思えるようになったことはこれでも進歩した方で少しだけ自分のことを大切に出来るようになった兆候だということ。なんだちゃんと大事に出来てんじゃんって、安心した。それなら誰かのことも大事に出来るし愛せるし守れるし肯定してあげられる。愛せるじゃん!って思えたらスッと気持ちが楽になった。愛ってすごい。

肯定されること、

救われること、

愛されることを誰も恐れないように。

この3行で締めくくられた私にとっての教科書のようなインタビューは、自分を粗末にしてきた過去とそれが悪しき事と思えた安堵感を与えて、赦し、これまで幾度となく踏み潰されてグシャグシャにされてきた、グシャグシャにしてきた素直に人を自分を愛する事、人に人から愛される事を安心して受け止めて良いんだという柔らかな肯定を与えてくれる、袋小路に迷った時に助けてもらえるようなそんな3ページだった。

 

書けば書き進むほどよく分からなくなってしまったけど、過去がどんなにクソでも腐っててもそんなのもう別に良い。今を愛してると言える自分になれただけで良かったから。愛するを出来るようになった自分を肯定して、愛するを赦してくれる人を大切に、肯定して、守る。

 

遠回りな言葉など使わずシンプルに誰かを愛していたいし愛されたいし毎日大事にして生きていきたい、そうしていたいって、最初からこの一言で良かったんじゃないの?私。

 

これをもって過去の供養はおしまいにしよう。

みっともなくてもみっともないのが私だ畜生。

 

 

 

 

 

 

 

 

うなぎのひ

朝からずっとその事ばかり考えている。

鰻のこと。

本当にそればっかり考えている。

 

どこで買うかとか、どれくらいの値段かだとか鰻巻き食べたいなとか(自分で作るのは大変そうだから多分作らない)鰻ざくも良いよなとかうなぎ好きだから、わりと今日の土用丑の日は楽しみにしていて折角だからちょっといいやつ買いたいな、とか考えたりしてしまってる。

 

朝のめざましテレビには間に合わなかった。

眠くて眠くてもう無理だった。だからまだMVはみてない。ねえいつからPVはMVと呼ぶようになった?あまりにも自然にさも当たり前にMVだったみたいに切り替わってる気がして。私は未だにプロモはプロモじゃなのか、と思わずにいられないのだけど。

 

【  draw (a) drow  】

f:id:eyerony:20170725132644j:image

https://youtu.be/BMlZdd_s2HA

https://gyao.yahoo.co.jp/player/00071/v10238/v1000000000000003759/

まだ観れてないんだけど、

この絶対的な感情をぶつけたというその曲がすごく好きで、発売までまだ日があるというのにもう何度でも聴きたくなってしまう。初めて聴いた、ツアーファイナルの日。最前列で瞬きながら弾けるように響いた曲の旋律突き刺さる言葉の嵐と心の波のような変拍子!!震えた。

 

ツアーファイナルの感想を書こうかなと思ってまだ書けていない。そうこうしているうちに昼休みが終わる。弁当を食べ、歯医者の予約をし、おわった。

 

続きはまた今度に。

 

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サクッと退勤して東武で鰻を買った。

別にどこでも良かったんだけど、一年のうちこんなに鰻鰻と騒ぐのはこういう日くらいだし完全に百貨店の鰻コールに呑まれる形で呼吸するように買っちゃった。スーパーで買っても百貨店で買っても価格は大差ないんだね。ツレが帰るまでお預けだけど、早く食べたい。

 

退勤して直ぐ開いたTwitter

あの子からのハートが連なる通知欄。嬉しかった。名前を入れずに呟いた、声に出すには正直しんどかった本音。体調不良からやってくる弱気とそれに抗おうとする足掻きの様。私の冴えない、よくある日常の一コマを目に留めてくれたようで押されたハートマーク。これはもしかしたら指が滑っただけかもしれない。でもそれでも良いから嬉しい。なんとなく、おつかれ、と言われた気がして嬉しいから都合良く受け止めておく。こんな事Twitterとかで吐き出すと鼻で笑われるかもわからないし、潜在的なところで変な気持ちになられても困るからここだけで吐き出すこの気持ちは、どこよりも純度が高いものでありたいと思うし本当はいつでも純度の高い状態で好きな人への気持ちを吐き出せれば良いのかもしれないけどそれを穢されるくらいならコソコソ吐き出して好きを貯蓄していた方がいいなと思う。だから一対一の気持ちで向き合う方がやっぱり楽なんだよな。まあいいや。

 

おうちに帰ろう。

 

 

ひとりぼっち惑星

暫く更新を停滞させてしまった。

 

三連休が終わっていつもの日常がかえってきた。三連休はとても楽しいもので、まず、部屋がとても片付いた事。新居に越して今月末で2ヶ月になる。2DKのうち一部屋がなかなか片付かずであったけど、やっと箱がなくなった。すごく快適な空間になってツレと2人で喜んだ。ソファーをそちらの部屋に移動させたのも大正解。でも人間より猫の方が利用頻度は高いからちょっと羨ましい。

2日目は共通の友達をキッカケに奇妙な縁で結びついて集まることになった飲み会。これもとても楽しくて、世間の狭さを感じたけどこうして集まっていることがやっぱりすごく変な感じで、でも誰も誰にも気を遣わないでいい感じが心地よい会だった。

3日目は近所で過ごすと決めていた。たまたま近所の大きな公園でやっていたよさこい祭り。面白そうだからと見に行ったらこれが本当思った以上に楽しい。煌びやかな衣装、よさこい阿波踊りの違いもよくわかっていないでみにいったからよさこいの音楽が思ってたよりとても現代的というか、ダブステップみたいな音とか入ってて凄く気持ちが高まった。今の家に引っ越す決め手となった1つとして、この公園が徒歩圏内にあるから、という2人にとってはお気に入りの公園ではこうしたイベントが季節の折りにあるようだから今後も気軽に遊びに行こうと思った。

 

人にたくさん会った三連休。外に出ても人、スマホをのぞいても人。ひと。ひと。私は本来なら人が苦手だ。すごく。1人はラク。1人でいれば回避出来る事象は沢山あるから。誰が誰を好きとか苦手とかdisられるとか嘲笑されるとかエアリプも嫌いだし陰口言われる可能性とかそういう事に一喜一憂し易いから、それなら1人でいたいとおもってしまう。本当はそんな事考える事なく当たり前に人付き合いをしたい気持ちも勿論あるよ。でも笑う時は、嘘笑いはほとんどしない。嘘笑いをしないといけない人には自分からは会わないし、それは本当に事故のように遭ってしまった時に限る話。

 

SNSを見て思うのは、どうしてみんなは上手に輪を形成してそこをグルグルとテンポよくボールをまわすことができて、大縄跳びであればタイミングを掴んで結束力硬く縄を飛ぶことができるのに、私はそこに違和感を感じてモヤモヤして果ては気分が悪くなってきてしまうのか、ということ。考えすぎなんだと思う。入りたければ入る、入りたくなければ入らない。それだけの話。でもそんな事考えているのか、いないのか、当然のようにそれをこなして楽しい!となれる人の気持ちとそれに消化不良を起こしてしまう自分、私がおかしいのかな、と適当に済ませばラクなんだけどそうする度に向いてないから誰とも関わりたくない関われないなとか思ってしまうから、それはよくないと思う。

 

学校生活を放棄したせいかな。

そんな風にも思うけど、それでもなんとかやってきた。好きなものはたった一人で愛していたらよかった。好きと一対一で向き合う関係が不純物のない状態に思えるから。でもそれではあまりに寂しいのか。わかんないなあ。

 

単純に人が怖くて人と関わる事で好きすら壊れてしまうんじゃないかと想像して怯えているだけなのだけど、どうすればいいのかな。

 

ちなみに《うつヌケ》でうつは抜けない。

それについてはまた今度。

 

私がこれまでの私でいられるのも、

あと10日ほど。