_eyeronyだけが愛だった_

笑えない過去と、それからの事

くがつ

今年ほど8/31を強引に意識させられた日は、

ここ10年ほどの間の中では

一番だったんじゃないかと思う。

 

だから9月になった瞬間、心底ホッとした。

堪え難いトラウマから解放された気になれた。普段意識せぬところで意識をしないように本能的に察してスイッチをオフにしている感度の部分を目を逸らすなと言わんばかりに、両方の頬を手で包みながら向けさせられるような思いはもうしたくないな、と思う。どんな想いで受け止めるかは人それぞれではあるのだけれど、とてもじゃないが、割り切って受け止められるものではなく、自分で自分を救ってきたんだという自負もあり、ごめん、うまく書けないかもしれない。とにかくダメだった。救われた人は救われたし、そうじゃない人はそうじゃない。それだけだ。言いたい事は沢山あった。書いては消えた。何度だって書いたけど消えた。禁忌だったのだと思う。もう書かない。もしかしたら書いちゃうかもしれない。その時はその時だよね。ブログを書かなかった(厳密に言えば書いていたけど消えた)期間が長かったのは、その日を迎えるまでの間にかなりボロボロな気持ちになってしまい、別にもう大丈夫なのに、大丈夫にしてきたのに、大丈夫じゃなかった時の事が苛んでいた為でした。

 

好きな事を話したい。

9月に入った途端に空気が秋めいた。秋はとても好きで、秋は短いけどとても好き。秋に着られる服が好き。秋の空気の棘のないひんやり感が好き。日が暮れるのが早くなるのが好き。夕暮れも。空の高さや色も好きだし、食べ物も好きだな。梨とか。かぼちゃとか。大好きなベレー帽をかぶることができて、可愛いワンピースをコートの下に隠して着なくても良いところも良い。あとはこれまで好きになった人、好きな人、愛する人は秋の生まれが多い。秋に纏わる思い出は良い事も悲しい事もあるんだけど、憎むような思い出は一つもないような。心底大好きでその人とお揃いのピアスを開けたのは丁度秋だった、彼の誕生日。結局その人は何人もの女を思わせぶりにあしらって遊んでいて、冬になる頃さっぱり終わった。大好きだったな。季節の空気は秋に限らず今も昔も色んな思い出を脳裏に見せてくれるよね。こうして穏やかに思い出せる事ばかりなら良いんだけど。一年中秋でいてくれないかな。終わらないでほしい。昔から大好きなRaphaelの秋風の狂詩曲が似合うこの季節がずっと続けばいいのにと、毎年毎年思ってる。

 Raphael 秋風の狂詩曲 - YouTube

秋風の狂詩曲(ラプソディー)

秋風の狂詩曲(ラプソディー)

 

 

 

 

暑さのせい。

夏が逆戻りした東京はモワッとした空気が充満してろくに深呼吸もできたものではないね。

 

夏の甲子園が終わった。仕事中、テキスト実況をチラチラと見守り結果は花咲徳栄の圧勝だった。自動更新の度点数がポンポン増える。爽快だった。きっと試合を観ていたらもっと楽しかったんだろうな。人に話すと意外がられる事の一つとして(と言ってもそんなに言う人もいない)高校野球が好きな事。というのがあって、私のこれまでの生き方、物の嗜好から程遠いところにありそうなものだからしっくりこなくて無理もない。何度やり直しても自分にはきっと絶対巡ってこない青春の有り様と、崩れそうもない固い絆、どれも何度やり直しても自身で味わう事が難しそうなところに非日常をおぼえて、憧れて、素直に選手たちの頑張りや、ここまでくるためにした葛藤、全てを賭けるその情熱に凄く揺さぶられるものがあるから大好き。屈託のない笑顔とか、悔しい涙とか、無垢な感情だから安心するし、ほっとする。どんな観戦の仕方をしているんだと思うかもしれないけど、試合が面白いのはもちろんだけどそういうところで救われるような気持ちになる部分もあるんだよ、ってことです。身内がいるわけでもなく母校が出場しているわけでもないのでフラットな気持ちで、どの学校が勝ってもどの試合も良いものだったなと思っていつも楽しみにしてる。そんな夏の甲子園

 

甲子園が終わると、いよいよ夏も佳境。

 

今日はラジオテーマに沿ったメールを書いた。ドロドロについて。詳しくここにその事を書くことはしないけど、ドロドロの根源は常に記しているような事だよ。呪いのようなもの。

 

呪いと言えば、

最近ミシンを使う事を克服した。

 

『できないよ』は呪術だ。

子供にその言葉を擦り込むようにすることは絶対自分はしたくないと思った。この言葉を擦り込まれて出来ない、どうせ出来ないと拒否してきた事が沢山あった。ミシンもその一つだった。不器用だから、危ないから、向いてないから、何かと理由をつけられた出来ないに制限された事。好き放題やってきたつもりでも案外素直に制限下のもとに生きていたんだなって思う。よく言う成功体験って言葉があるけどそれが乏しい人は、もしかしたら成功できる前に規制されてしまった人もいるんじゃないかなあ。なんて思ったり。規制を解除されたような気持ちで走らせたミシン。お世辞にも上手ではなかったかもしれないけど、楽しかった。これで作る事できるな、作りたいもの沢山ある。考えるだけならいくらでもした。最近一番嬉しかった事かもしれない。

 

乗車時間十分で書く備忘録。

一先ずここまで。

学級会は懲り懲り

そう思う瞬間思ってしまう瞬間に出遭うのは最早災害というか災難で、ただそれがわたしのトラウマスイッチというだけなので例えばゲリラ豪雨に遭ってしまったとか靴の底が剥がれてしまったとかと同じ。

 

議論する事が嫌い。何かを晒し者にするような事も多数決も答えのない正しさも悪についてもそういうのがもう大嫌い。嫌い嫌い嫌い嫌い大嫌い。どうしてIじゃなくてWEで考えたがるのか。個でいいんだからそれを無理やり集合体としないでほしいって。

 

何度もおまじないのように自分に言い聞かせる、自分の好きだけが全て、自分の信じる気持ちだけが正しさ。そうしていないと身がもたないよ。誰とも本当は共感なんてさほどしたくはない。ただ好きという気持ちだけ自分の心の中で大切に水をあげていつでも綺麗に咲かせておきたい。虫がつかないように、枯れないように、病気にならないように、その心を愛していてその慈愛を栄養に健やかに生きていきたいだけ。

 

その志を邪魔する毒のようなものが学級会にあるガス室みたいな空気の悪さのソレであって、間違えてその部屋に入ってしまったと悟った時には直ぐさま息を止めて、守りに入る。

 

安全圏に逃げ込んでそこが自分だけの小さな箱庭なのだとしてもそれが生きるために必要な行為なのだとしたら私は生きたいからいくらでもそこへ逃げ込みつづける。

 

思考に点数つけたがる、わかるとかいいたがる、批評したがる、議論したがる、そんな世界はそんな風潮はあってもいいけど私は要らない見たくない。

 

生きやすいように生きることを

毎日手探りで探していかなくちゃ。

 

厭世するのは馬鹿馬鹿しい。

コピーキャットばかりで反吐が出る

敬意があれば良いとかそういうんじゃなくて。

 

退屈な日常の垂れ流しを指でスラスラと流す時たくさんのコピーキャットたちがそうして流れていってもうどうしてもそれが嫌で呼吸するように押すミュート。

 

その言葉は誰が発した言葉か、言葉なんて皆平等に操れるおもちゃなのだから、好きにして良いだろ。言葉狩りがしたいわけではない。でもどうしてもこれはダメだろう、と思うコピーキャットをみるともうこの先一切お前のことなど私はみたくないよ、という気持ちになる。

 

私だって誰かの言葉を、誰かの話し方を、知らず知らずに影響されてそれが体に浸透してさも自分の言葉のように話しているかもしれない、そう感じる人がいても否めないとおもう。きっとコピーキャットだと私がおもうその人らもきっと浸透した結果、なら良いなとおもう。

 

そうじゃなくて、そう話せばあなた方は私に好感を持つでしょうのような裏が見え隠れするような、そういう媚びのようなものを本能的に拾ってしまうともう無理で自分の世界からだけはそれを駆除したくなってしまうよ。

 

それを許せる気持ちが私にはない。

 

頑なな性格をしているから、いけないのもわかる。真っ向から真面目に特攻し過ぎてる事もわかってる。それが苦しい事も、首を締めている事も、生きづらくなることも、自分で自分に課している足枷なので仕方がない。

 

とにかくダメだ。

早く夏が終わって静かになって欲しい。

 

偽物なんかに興味ない。

 

偽物ばかり。反吐が出る。

それを大声で言ったって何にもならないけど

嘘はつきたくないのだもの。

 

変わらない

7月最後の日、入籍を済ませた。

 

子供の頃からもう20年以上大好きなGLAY、そんなGLAYが20万人ライブを99年の7/31に催した。未だに破られていない前代未聞の記録を更新したその日に私は人の妻となった。20万人ライブの時は小6で、中学受験、夏期講習、とあったが駄々をこねて連れていってもらった。あれから18年。GLAYのファンにとってこのGLAYの日は特別な思い入れがあったから、無事この日に入籍出来たことは本当に嬉しい。今年の0731、午前10時にお台場でのフリーライブが告知された。私は仕事で、午後はいざ区役所へいよいよ婚姻届を提出。という予定であったから参加は無理。もっと早く知ってたら全休取って行けたんだけどな。あろうことか、区役所に向かう途中最寄の駅に行く前にツレと些細な事で喧嘩をした。なんでかは忘れた。それくらいどうでも良い事だった。あまりにムカついて、顰め面で電車に乗り込んでフリーライブがライブ配信されていると聞きスマホGyaOを出す、もイヤホンを忘れた。画面の中ではかんかん照りの会場で歌い演奏するGLAYの姿。でもイヤホンがなくて音を流せない。

と、不貞腐れていたところでツレがイヤホンを差し出してくれた。本当なんでそんな直ぐカッとなって揉めたのか忘れたけど、GLAYがカスガイとなって事なきを得て、画面の中でTERUが歌う生きてく強さを聞きながら役所のある駅まで行った。全て済ました後に、出会った街、高円寺へ。

 

高円寺の古着屋で出会いました。

 

なんていうと洒落ているように思われたり、ドラマのようだねとか言われた事がある。でもそこは、本当に高円寺の中でも最もディープで、別にオシャレではない。なんだったらオシャレな人は立ち入らないんじゃないか。そんな佇まいの古着屋。古着の他にはよくわからない自主制作の本とかCDとか、ヤバイ感じのバンドのCDとか、あとは口枷とか。ここまで挙げても異端な店という事がわかると思う。そこの主は高円寺の母とか一部では言われてた。東京のアンダーグラウンドとかアンダーグラウンドは東京にしかないとかここがアンダーグラウンドだ!とかなんかアンダーグラウンドって言いたがるね?って思っちゃうんだけど、私の知ってるアンダーグラウンドはこの店だった。ありとあらゆるアングラがそこにはあったしそこに来る人も一癖じゃ済まない人しか来ない。残念ながら、店自体は建物の老朽化のため取り壊しが決まり、もうそこからはなくなってしまった。惜しまれながらなくなった店。でも店主の高円寺の母はといえば、やっと知らない人(客)に会わないでいいと思うとすごく気持ちが楽になった、ずっとアレが嫌だった、だから清々しているのよ。と言うから少し驚いたけど、この店での出会いから始まった私とツレの事はずっと程よい距離感で見守っていてくれた。思い出の店はなくなったけど、街はきっとなくならないから。いつまでも楽しい気持ちで高円寺に足を運べる2人で居れたらいいね。

 

結婚したら何か変わるのかと思ったけど、思っていた以上に何も変わらない。友達は、変わらない事はいい事だと言ってくれて嬉しかった。ああ別に変わんなくていいのかって。人の妻になったら何もかも変わってしまうかもしれないという漠然とした恐怖がなくなって、楽になったのが本当によかった。楽しくなった。

 

人の妻、変わらない自分で楽しめますように。

 

(下書き編集0807)

 

わたしが消滅する

苗字が変わる。

これまでの私の氏名は消滅する。

 

なんかそう考えると、これまで29年間共にした名前が紙切れ一枚でフッと、なくなってしまうのってちょっとだけ怖いなあと思う。

 

そんな時間を迎えるまであと数時間あまりで。

 

この名前でここまで生きてきていろんな事をしてきたけど、これからは違う苗字を与えられた新しい氏名でどんな事をしていくことになるのかと考えると感慨深いのと、出来るだけ楽しいことと良いことを重ねて生きたいと漠然と考えている。

 

物怖じする性格、予期不安でどうしようもなくなるところ、そういう気質はまああるんだけどそれでも名前が変わることでこれまでの業とか足枷みたいにつきまとうモノとか全部おろして良いんなら、いや、良いよってされたい。勝手にそれで良いことにしようか。

 

ただ、そんな業や鬱陶しいものにまで多少の馴染みとか、腐れ縁のような気持ちを持ってしまっているから結局のところつきまとうような、そんな気がする。

 

大好きな女の子が言っていたように、十代の時大人になればなくなると思ったドロドロした嫌なものはハタチになってもついてきたし、アラサーになっても、そしていまも、変わらず在るものとしてなくならないと。でもだからいけないのではなくて、それといかにして共存するかが重要で。なんとかなるよね。

 

こんなお堅い物言いで書いてはいるけど、

実際私の頭の中は今最高潮の気分になっていてだって子供の頃からの夢が叶うんだから。

 

大好きなGLAYの、GLAYの日に結婚したい。

 

それが叶う事だけでもう私おなかいっぱい。

 

子供の頃からずっとGLAYの音楽とともにここまで生きてきて、何があってもずっとGLAYがそこにはあって、裏切るものがたくさんあっても何があってもGLAYは裏切らなくて、ただ程よいところに寄り添ってくれる。それがGLAYで。

 

そんな素敵な日に人生賭けて、

気持ち新たに生きられたら。

 

 

ヒヤリとしたい。

ここのところ体調を崩し気味だった。

いや、今もかも。

本調子ではない。

 

まず月曜日、会社を休んだ。

熱が出て、気持ち悪い。ヘロヘロでもう無理と思って朝一に欠勤する旨を連絡してベッドに沈んだ。ツレが、猫たちのいるリビングにクーラーをつけるから寝室のクーラーは切ると言いリビングで休んだらどう?と提案してくれたけど徐々に暑くなる部屋で昼までダウン。暑くて起きて、やっとリビングへ行っても会社を休んだ罪悪感とか、この感覚知ってる、っていうフラッシュバックが起こりそうになる事を無視するために思いついたことは『ホラー映画を観ること』だった。

 

会社休んで涼みながらホラー映画だなんていいご身分だと思うけど、会社に行けるコンディションじゃなかったんだもん。もうしょうがない。アマゾンプライムをつけて、片っ端からホラー映画を漁る。

 

ホラー映画が昔からとにかく好きで、幼少期は親からそれをとても嫌がられた。どうしても観たいとねだって連れて行ってもらった『エクソシスト』。今でも覚えているけれど劇場には私と母を入れて客は5人しかいなかった。吹き替えが良かったけど字幕しかなく、あの有名なブリッジして階段を下るのとかひとしきり見て当時の私の感想は一言で言えば、微妙。後々思えばその時に観たかったのは悪魔祓いとかじゃなく典型的なお化けがみたかったんだ。母親はウンザリとしていた。それも思い返せば夏休みだったな。

 

そして今回観ることにしたのは『喰女』

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四谷怪談を題材にしたもので、序盤は正直言って退屈だった。ホラー映画だと思って観ると退屈と言った方が多分適切。

舞台の稽古をする広い倉庫の様な場所に立派な舞台セットが沢山あり、そこで稽古をしているシーンが話の七割を占めるのではないか。そこで淡々と稽古をする、それをパイプ椅子に座って見守る舞台監督たち。そんなシーンが暫く続く。

 

重ね重ねになるけど、私はお化けがみたい。悪魔祓いとか怪死を遂げるとかそういうのじゃなくって。ひやっと怖がりたい。お化けというのも結構分かりやすいのが好きで、呪怨とかなんてすごく良い。貞子より伽倻子、もしくはひき子さんもあり。なんでかって分かりやすく怖くて、聴覚視覚からドキッと恐怖を味わえるから好き。そういう感覚が欲しい。ジェットコースターで落っこちた時のフワッとした感じが好きとか、そういうのに多分似てる感覚。

 

『喰女』はというと、私が欲していたホラー映画ではなかった。主演の市川海老蔵がとんでもない遊び人の役者の役で、共演女優や現場の女に何かと唾をつけたがる。そんな彼にも彼女がいてその彼女が柴咲コウ演じる劇団の看板女優。2人は四谷怪談の劇中でお岩さん、伊右衛門の役を演じるのだけど、話が進むごとにお岩を演じる柴咲コウの愛憎が極まり半ば生き霊の様になったかと思えばお岩の怨念と合わさって?(なのかな…)いき、そんな気持ちも知らぬ海老蔵は浮気を続ける。最後は完全に生きた人間と死んだ人間の怨念に呑まれて現実と非現実の入り乱れた空間の中で稽古を続けいよいよわけがわからなくなり…、という、お化け的なホラーというよりも最後は人間が一番怖いですね系の映画でした。求めているものではなかったけど、これはこれで面白かった。

 

と、ここまで書いてみて思うのはやっぱり私はこういう感想とか書くのって凄く下手。書いていくうちにそれなりになっていくのかな。

 

そして体調は回復せぬままにその後ソファーでうたた寝をして、まだ昼間なのに家のドアが開く音がした。誰?怖い。まだ昼過ぎ。ツレは帰ってこない。くるはずがない。このマンションはオートロックなのに。誰?!!パニックを起こし動けなくなり、頭の方から足音が近づいてきたところで記憶が曖昧になった。生きた心地がしなかった。

 

夜帰宅したツレにその事を話すと

『玄関に下げているカランカランは鳴った?』と聞かれた。思い返せばカランカランは聞こえなかった。玄関のドアノブに猫の形のカランカランと鳴るベルを下げている我が家。

 

じゃあ夢じゃないか、

となりようやく安心した。

 ホラー映画よりも怖かったのは、現実との境目がとても曖昧な自分自身が見せた夢だったというのも皮肉なものだよね。それでも私は怖くて仕方ないホラー映画がやっぱりみたい。