_eyeronyだけが愛だった_

笑えない過去と、それからの事

いきしに

について、考えなければいけない事が多過ぎてこれまで粗末にしてきた事についてもその割にいきなり可愛がりたくなっちゃったりと、自己中なもんだったなと漠然と。

粗末に扱ってきたわりには身体は健康で、不良品のような即バキバキに折れるココロとは大違いに見た目も体質も図太く丈夫。ココロさえ強ければ怖いものなかったんじゃないか?と思うけど、そんな屈強でもな。死に損なったと思った事も、生きたくて仕方がなかった事も、なんとなく生きてる事も、本当自己中に決めてきた。

これからも自己中に決めていくのだろうけど、そうもいかなくなる時がくるんだろうね。そんな風に生きる事死ぬ事を交互に考える。

病気とは一切無縁だった父が病に倒れたのは2年前のことで、体も心も屈強、楽観的、ブレなすぎて時々ウザい、お調子者。そんな父で。病に倒れたと言う言葉すら不似合いだった闘病当初の姿。それでもその時点で気付かなければひと月足らずで死んでいたという話を今日聞いた。それから今日までは一進一退を続け、それでも目に見えた衰弱は無く病人っぽさもなく過ごしていた、けどそんな姿の父は、入籍をする少し前にした両家の顔合わせの時が私のみるそんな父の最後の姿になってしまったのかもしれない。と思うほどその二ヶ月後である今はなんだか病人らしくなってしまった。そしてそれは、もうなんとなく色々な事を覚悟しないといけないようなそんな予感を憶えるような。出来ることはあまりありません、でも緩和したり、ケアをする事はできます、とは医師の言葉で、そうなんだよ。出来る事はあまりないんだ。その言葉に少し救われた。理想論で語る出来る事なんて山ほどあるんだろうけど、人が人に出来る事は限られてる。出来ない事を出来るように謳われるよりもずっと良かった。そう伝えることが、お仕事なのだとしても。生き死にについて考えた時、できることって一体何なんだ。あんま無いんだ。多分。生きるか死ぬかしか。生き延ばしてくれる、産まれてくる手伝いをしてくれるのが医療なんだなあ、とかぼんやり考えながら大雨降りしきる駅までの道を歩いて「俺はそんなショックうけてないよわかってたし」とさらりと言い切る隣を歩く弟が、思ってたよりずっとシッカリしていてなんだか大きくみえた。けどお姉ちゃん心配だよ。なるようにしかならんけどさ。

最近数日ではあるけど、Twitterをやめていた。流れてくる気まぐれな死にたいが心底無理だと思った事や色々あるけど、不純物としか思えなくって遠ざけた。死にたいを死なないでと言うことで愛情を確認しているのか、踏み絵なのかそんな風になっている、その時の反応で選別されるような様がダメだった。そんなに嫌ならじゃあ辞めたら良いのにダラダラ居てしまうのは結局そういう繋がりに慣れてしまったから失くす事に抵抗があるだけでそれもとても嫌だし今は何よりストレス感じたくない。から一方通行を意識したような事しか話せず、こうやって壁打ちでなんか書いてる方がずっと良い。人と繋がりたいのにヤケドしない繋がり方を選びたがるとはまた随分自己中お疲れ様なアレで。

壁打ちで書いているとどうしてもぶっきらぼうで、憂鬱な人の様にみえるような気がするんだけど。でも全然私は元気だ。身も心も。ただ日に日に体が痛い。変化がある。でもそれは粗末にしてきた割に健康だから感じる痛みで別にそれはそんな悩みでもない。外の雨が酷いので、スターバックスで雨宿りをしながらこの文章を書いている。リラックス効果のあるやつで、ハーブ系で、ミルクの、美味しい紅茶のやつ…なんだっけ。注文をする段階でどれかおもいだせず、抽象的な伝え方をして店員さんを困惑させるも一緒に考えてくれた店員さんがめちゃくちゃ可愛かった。導き出した答えは、ティーラテのアールグレイ。バニラシロップの風味と香りの良いアールグレイ、少し肌寒い今日のような日にはピッタリだった。身辺の変化に疲れ気味のところに優しく溶け込んできて本当に美味しい。飲み終わる頃には雨も多少弱まれば良いのだけど。生きるか死ぬかの話からティーラテの話にまで話が脱線したところで、おしまい。死にたがりは嫌いだよ。