_eyeronyだけが愛だった_

笑えない過去と、それからの事

向き合い方の事

音楽を聴けなくなり映像を観ることが出来なくなり顔すらみられない、声も、言葉も何もかもを受け止める器を失ってしまうこと。それは嫌いとか好きとかよりもっと深刻な部分で生じた障害のようなもので、3ヶ月近く続いた。私とあの子だけで向き合ってきた何年間か。実際顔を合わせて向き合ってからの期間というのはまだ1年ちょっとしかない。顔を合わせてというのは群れの中の1人ではなく一対一になる場面を迎えてからというところから数えたもの。そこからより一層向き合うという感覚を濃く感じたことは覚えている。あの子は鏡のような女の子で美しく映る時も歪んでグシャグシャになることもある、でも、だから、安心出来た。めまぐるしく変わる変わることに臆する事のない真っ直ぐなところも好き。そう在って大丈夫だとその都度教えてもらえる気がした。

これまでの通りの自分じゃなくなってしまうような感覚に見舞われたのがちょうど夏の終わり9月の頃で何もかもダメになりそうでついに気が狂ったかもわからないと情けなく恥ずかしくもう何もわからない誰も彼も好きじゃなくなりたい抹消したいような自棄を起こしてそれは後に私の体の中で凄まじいスピードで命が形成されていた事によって生じた歪みが原因だった事がわかったけれど、それにしたって経験した事のない調子にバランスを崩して一定のバランスと距離を保って心地よく向き合えていた人とまで向き合うことが恐ろしくなった。変わっていく何かが目に見えないから恐ろしくついていけない変化に完全に置いてけぼりにされてしまって気が遠くなっていって全ての毎日が大丈夫な日でなくなった。それももうずっと大丈夫な日なんて訪れないんじゃないかと絶望するくらいに、生活すらままならなくなりそれでも世界は一定に廻ってあの子だって変わらずキラキラしていたし、少し前までいた世界は気付いたら見えない手が届かないほど遠くにいってしまったようなそんな感覚をおぼえるほどだった。向き合えて当たり前の鏡はみえなくなってしまって、それを見失ったのは私が情けないからこんな姿じゃ恥ずかしくて見せられない見れないと殻に篭った。

徐々に人間らしい暮らしを取り戻しつつある頃に、あの子の姿を画面の中に見つけては、音声は流さずに動くあの子を眺めてた。声を聞くのが怖かった。そこから今度は追えなかった言葉を読む事にした。辛かったでも好きだと思った。音楽を聴いた。買ったのにずっと聴けなかったアルバム。聴けない罪悪感で辛すぎた。数ヶ月聴けなくなっただけなのに、懐かしく聴こえた。好きだと思った。体に染み付いた感覚は簡単には失せなくて自然と口ずさんだ。大好きな歌、大好きな言葉、声色。

今日、本当に久しぶりに映像をみた。ずっと聴けなかったアルバムについていたDVD。あの日私はあの場にいた。とても軽やかな気持ちで全身で全てを取り込んでいた。そんな日を収めた映像なのに改めて受け入れようとするとすごく大きな壁のような、圧のようなものを感じていてとてもじゃないが絶対にみれたものじゃあなかった。それをやっと見る気になった。楽しかった記憶が呼び覚まされて、最初こそ緊張して仕方がなかったものの気付けば楽しくなっていた。やっと、取り戻せたような感じがした。その時お腹の中でポコポコ、と動く気配がした。

ここまでくるまで長かったのか、あっという間なのか、たかが3ヶ月だというのかはわからない。でも確かにまた向き合えるようなそんな気持ちを憶えた。うまくは言えないけどまた向き合っても大丈夫なような、大丈夫な日が訪れたようなそんな気がした。