教科書のように
生き方が下手でこれまで何度となく恥ずかしい思いをして本気で恥の多い人生を送ってきましたとか思いながら思春期、太宰治を読んでから10年以上は余裕で生きてきた。どこへ所属してもうまくできない、親は頭を抱えてそれでも諦めずに娘をなんとかしようとお金を払ってそれなのに私にできることは学校にはないと夢も何もかも全てを放棄しやっと呼吸出来る、自分を自分のまま生かせてもらえる場所だとバンドのスタッフしてみたこともあった。それすら途中で出来なくなってこの腐った体腐った精神、不健康だからもう何してやっても別にいいだろうと粗末にしてきた10代だった。
ハタチになってそういうの疲れる怠い何も良いことなかった疲れた、そう思っていた時出会った今のツレとはなんだかんだでもう10年になる。今のツレに出会わなければ、多分未だにヤバい感じだったかもわからんし、あまり想像したくはない。ツレは沢山私が厭世しないための生き方を、良い道しるべを教えてくれた。でも彼は異性だから、面倒くさい女のグチャグチャな気持ちは多分わからない。そんなグチャグチャな部分を彼女が埋めてくれたのかもなと思った。そんな記事だったと思う。
教科書を読むように読んだ。
大森靖子 生きること自体を肯定、それが大人の仕事 (日経DUAL) - Yahoo!ニュース
どれを誰に愛されても嬉しいけど、
そのどの私も私のものだから、
ひとつとして誰にも否定されたくない。
これはずっと思っていた気持ちそのもので、
私の要素のどれか1つでもdisるなら何1つ愛さないで良いからその代わり愛さないで欲しい。
こういう事言うから極端なんだけど、でも、それをマイルドに言えばこういう言葉になるのだろうか。そもそも、前提として愛される、という事がわりと最近まであまりしっくりこなかった。ずっと。
自己評価を低く見積もりがち、
即死したくなりがち。
記事の中で書かれている典型的な自己評価の低い人間であった為、認められるはずもなく(そうした経験も希薄)、愛されるなど夢、愛されるとは幻、好きでいるフリ、私を好きでなんの得がある?とか、そういう腐った精神が根を張り巡らせたような人間でまさに即死コース真っしぐら!そんな生き方はマジで苦しく生き地獄で、救いを求める気持ちは確かに存在していたけど助けてもらえる気なんかしなくて無理だった。
自分のことは自分でしか助けられない。
これは今でも思っていて、誰も救えないんだから自分が自分を救うことしか出来ないのだと。
ただ誤解されたくないのは、そう思えるようになったことはこれでも進歩した方で少しだけ自分のことを大切に出来るようになった兆候だということ。なんだちゃんと大事に出来てんじゃんって、安心した。それなら誰かのことも大事に出来るし愛せるし守れるし肯定してあげられる。愛せるじゃん!って思えたらスッと気持ちが楽になった。愛ってすごい。
肯定されること、
救われること、
愛されることを誰も恐れないように。
この3行で締めくくられた私にとっての教科書のようなインタビューは、自分を粗末にしてきた過去とそれが悪しき事と思えた安堵感を与えて、赦し、これまで幾度となく踏み潰されてグシャグシャにされてきた、グシャグシャにしてきた素直に人を自分を愛する事、人に人から愛される事を安心して受け止めて良いんだという柔らかな肯定を与えてくれる、袋小路に迷った時に助けてもらえるようなそんな3ページだった。
書けば書き進むほどよく分からなくなってしまったけど、過去がどんなにクソでも腐っててもそんなのもう別に良い。今を愛してると言える自分になれただけで良かったから。愛するを出来るようになった自分を肯定して、愛するを赦してくれる人を大切に、肯定して、守る。
遠回りな言葉など使わずシンプルに誰かを愛していたいし愛されたいし毎日大事にして生きていきたい、そうしていたいって、最初からこの一言で良かったんじゃないの?私。
これをもって過去の供養はおしまいにしよう。
みっともなくてもみっともないのが私だ畜生。